3人の教皇が並立するという教会大分裂を収束させ教会を正常化するために、1414年11月1日にコンスタンツ公会議が召集された。 公会議を召集した皇帝ジギスムントは、ヴェンツェル(ボヘミア王、元皇帝)の弟でボヘミア王の後継者にあたるが、国から異端者を無くしたいと強く願っていた。 ジギスムント皇帝がフスも招待したので、全ての議論を決したいと願うフスは喜んでコンスタンツへの訪問を決めた。 ジギスムント皇帝は、会議中の彼の身の安全を保障した。 フスのいつもの説教から判断すると、彼は明らかに自分の教義 (つまりウィクリフの教義)を教会の教父達に説こうとしていた。 教義の正統性を示す十分な供述を準備し、自らの死を予見したかのように遺書をしたためた後、フスは旅立った(1414年10月11日)。
11月3日にフスがコンスタンツに到着したところ、翌日には教会の扉に掲示が出され、「異端者フスの討論相手はニェメツキー・ブロトのミハル(Michal z Německého Brodu)である」と公示された。 最初、フスは自由に住居を決められたが、フスの敵対者が悪いうわさを広めたため、数週間の後には牢に入れられることになった。 フスはまず聖堂参事会員の邸宅につれられ、その後12月8日に、 ドミニコ修道院の地下牢に入れられた。 ジギスムント皇帝は、フスの安全保障が無視されたことに激怒し、 高位の聖職者を解任しようとしたが、その場合は議会も解散しなければならないので、結局はなりゆきに任せた。
12月4日、教皇は3人の司教からなる委員会にフスの予備調査を委任した。 告発者側は3人の証言者が尋問されたが、フスには1人の証言者も認められなかった。 退位を迫られてコンスタンツから逃亡していた教皇ヨハネス23世がついに廃位されたことにより、フスの状況はさらに悪化した。 これまでフスの身柄は教皇の監視下におかれ知人との連絡が可能だったが、廃位後、彼の身柄はコンスタンツの大司教の元に渡され、大司教の居城であるライン川のゴットリーベン城に送られた。 そこでフスは、知人との連絡を絶たれ、昼夜を問わず鎖につながれ、わずかな食事だけを与えられ、病にも苦しみながら73日間にわたり幽閉された。
1382年にヴァーツラフ王の妹アンナがイングランド王リチャード2世と結婚し、その影響で、ウィクリフの哲学書がボヘミアにも行き渡り、広く知られるようになった。 ウィクリフの哲学書は1401年か1402年に「プラハのヒエロニムス」が伝えられて、フスもそれに大いに感動したと言われている。 大学は新しい教義の広がりに対し反対の声をあげ、1403年に、ウィクリフに賛同する55の論文についての議論を禁止した。
大司教ズビニェク・ザイーツ (Zbyněk Zajíc、1403年に就任) のもと、当初は、フスは大いに名声をあげた。 1405年には、彼は組織の説教者(synodical preache)となった。 フスは研究者として、特にウィクリフの哲学的現実主義に強く魅了された。 その神学理論を知ったことにより、教会改革に向かうフスの性向が覚醒した。 このため、フスが聖職者を批判することが増え、大司教は彼に与えた職を解任した。
15世紀初頭の10年間に、ウィクリフ主義はボヘミアの土壌に移植されて広まった。 ウィクリフ主義は、フスの死までに、いわゆるフス主義として維持され、それからウトラキストに転じ、さらにターボル派につながった。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
ヤン・フスという人物はボヘミア出身の宗教思想家、宗教改革者
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